エロゲーとギャルゲーの境目が分からん。

選択肢は退化せず、ただ特化した。(「極南の空へ」より)
http://d.hatena.ne.jp/hachimasa/20090425/1240677105

# 北村薫は「人生がただ一度であることへの抗議として小説は読まれる」と述べたそうだけど、現在のエロゲーも同様のジャンルになっているように思われる。
# つまり、「人生がただ一度であることへの抗議としてエロゲーはプレイされる」。そこにあるのは他人のリアルだ。
# 極端に退化したように見える選択肢とは、そのじつ退化ではない。それは誰かのリアルを味わうことに特化され進化した選択肢だ。

 作品に対して没入させるいち手法として選択肢の退化というものがあるのではないだろうか。「選択肢を多岐に渡らせることが作品として素晴らしい作品の在り方だ」なんてのたくる輩がいるがそんな点は然したる問題ではない。非現実の世界を生み出す媒体はおしなべて言えることであろうがその媒体へ如何に没入させるか。この一点に専化されていくべきではないのか。
 
【追記】
 「誰かのリアルを味わうことに特化され進化した選択肢」だとするならば後記事を加味すればその「誰か」とは「一人」を選べないことを是とする「誰か」となる。そのような「誰か」を私は志向できない。


 
以下、追加。



シロクマの屑籠(汎適所属)(「一人のヒロインを選ぶ尊さからの逃避」より)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090421/p1

 一人の女性(キャラ)を選ぶということの意味は、“有り得たかもしれないほかの女性(キャラ)との可能性”を捨て去ることによって担保されるもののはず。「他の女の子がかわいそうだから選べない」などというのは*2、選ぶ側のエゴイズムでこそあれ、選ばれる側に対して誠実な態度ではない。要は、自分だけが愛しいという態度に通じるわけだが、そういうのが“いわゆる恋愛ゲーム”のメインストリームになっていったわけだ。
 (中略)
ごく控えめに言っても、「他のヒロインとの可能性を捨てるということ・だからこそ一人のヒロインを選ぶことが重くて尊いんだ」ということを骨身に染みて実感させてくれるゲームというのは、あまり無い*4。


 没入させることが可能か否か視点でみると受け手側との親和性がこれらのジャンルの「“有り得たかもしれないほかの女性(キャラ)との可能性”を捨て去ること」を志向することを排除しているのではないだろうか。現実においても多様な価値観の中で「一人を選ぶ」ということを極是となりえず以前では不貞行為とされていた「一人を選ばない」という価値観こそが正しいという主張を是認する人々が増えたことが「可能性の排除」を受け入れることすらできないのではないだろうか。
 
 

ワーキングプアというほどワークしてない日記(「ヤンデレ起源」より)
http://blog.livedoor.jp/itouitski002/archives/51405516.html

 ヒロインAを選ぶためには、ヒロインBはフラなければいけない
 ↓
「でもB、可哀想だな。あんなにオレのこと好きだったのに」
 ↓
「泣くかな? いや、怒るかな?」
 ↓
「ああいうタイプが意外と包丁で刺したりするんだろうな…」
 ↓
 ヤンデレ爆誕

 つまりヤンデレというのはプレイヤーの“罪悪感”が生み出した怪物なわけです。
(あるいは『ヒロインBがフラれるルートを作る製作者』の“罪悪感”が、です)


 この解釈と私の解釈が異なっていたのでちょいと面白い。この解釈で行けば前記事の「可能性の排除」をできない受け手が必然的に生み出した悪夢のような存在がヤンデレというものであり そもそもの存在性としてのヤンデレなんていうものは存在しないことになる。